ディドロの農業論 03(最終回) 帝政期ローマ~フランス(村井明彦) |
自作農(以下、ローマの場合「ラブルール」をこう書く)は法的にも保護され、農具や家畜にまで保護の対象は拡げられた。アテナイの法律では、牛を殺すことも生贄にすることも禁じられており、農具の窃盗は死罪にもなりえた。ローマでは、帝政期に入ると自作農を財務面で保護する措置がとられた。コンスタンティヌス帝は、債務の「カタ」に奴隷・牛・農具を差し押さえるのを禁じた。また、徴税請負人による自作農からの搾取を死刑をもって禁じた。駅伝などの公用のために牛馬を徴用する場合にも、耕作に役立つものは除外された。イリリア(現クロアチア領)の農村で領主が自作農に賦役を課して農村が荒れたことを知ったウァレンス帝(4世紀)やウァレンティアヌス帝(3世紀)は、その後永遠にこうした賦役を禁じた。
他方、自作農には耕作を継続することが期待され、耕地を荒地のまま放置することがないよう、各種の措置がとられた。ペルティナクス帝(2世紀)は、荒地を開墾した者に10年の免税を認め、奴隷ならば自由人の身分を与えた。アウレリアヌス帝(3世紀)は、市政務官に所領の耕作者を見つけるようすすめた。ウァレンティアヌスのほか、テオドシウス(4世紀)やアルカディウス(4~5世紀)は放置された土地の耕作者に先占にもとづく所有権を認めた。
フランスの王たちも農業を厚く保護した。アンリ3世(在位1574~89)、シャルル9世(在位1560~74)、アンリ4世(在位1589~1610)は、ラブルールの動産・家畜・農具の差押さえを禁じた。ルイ13世(在位1610~43)とルイ14世(在位1643~1715)もこの法律を維持した。種蒔きから収穫までの穀物の保存に関する法律は限りなくある。自然法はこう告げる。
「人が、畑または葡萄畑で自分の動物を放つことで損をすれば、この損失を自分の財産をせいいっぱい使って償え。茨に火がつき、積み上げた小麦の束に燃え移ったら、この火をつけたものが損失を負担せよ」(p.53)
自責的損失は自らが、誰かの故意による損失は加害者本人が償うべきである。実定法はこうした原則に新たな諸規則をつけたす。
「夜盗が他人の畑を荒らせば、当人が14歳以上なら絞首刑に、14歳未満なら鞭打ち刑の上、畑の主に引き渡され、長官の査定に従って損失を償えるまで主の奴隷とするように。大量の麦類に火を放った者は、鞭打ちの上、生きたまま火刑に処すように。過失により火をつけた者は、長官の指図により損失を償わせるか鞭で打つように」(p.53)。
実定法であるだけに、規定は現実的な事例に即してこと細かである。他人の畑に家畜が入って被害が出た場合には、家畜が差し押さえられ、羊飼いは罰を受ける。耕作された土地で狩猟をする権利は、領主にさえ認められなかった。
以上、3回に分けて見てきたとおり、オリエントから古代地中海をへて、同時代のフランスを概観してきた上で、ディドロはようやく農業技術の解説に入るのである。こうした側面に見られる彼の農業論の特徴をまとめておけば、それが国家=政治学(ポリティカ)と結合していること、したがって農業がいかに統治の基盤として重要であると考えられてきたかを各時代と場所の事例に即して強調していること、などとなろう。
次回からは、ウィットフォーゲルの「東洋的専制」論、「水力帝国」論にそって、農業と権力の関係に別の側面から光を当てたい。
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ディドロの農業論 02 共和政期ローマ(村井明彦) |
ディドロは、為政者でもあり農夫でもあったローマ人の例として、共和政期の2人の将軍を挙げている。セラヌス(レグルスとも)は、軍の指揮を任されたとき、種蒔きをしていた。キンキナトゥス(オハイオ州シンシナティの語源)は、独裁官となったとき、自分の土地を耕していたが、辞令で軍を率いて17日で勝利を収め、再び領地に戻って農夫となった。
共和政初期のローマのよき時代には、何ごとにつけても農業が高く評価されていた印である。ロクプレーテスlocupletes(富者)とは、フランス語では大ラブルール gros lableurs(富裕な借地農)と呼ばれるものと同様であった。最初の貨幣ペクーニア・ア・ペクゥ pecunia a pecu(「家畜の貨幣」を意味する)には羊か牛の刻印があった〔ちなみに、牛が貨幣である時代もあった〕。市民の最も高い階層は「ルスティカエ・トリブス rusticœ tribus」(田舎の名族)と呼ばれ、彼らにとって「トリブス・ウルバナーエ tribus urbanœ 」(都市の名族)になることは零落を意味した。カルタゴを攻略したローマがその図書館から救い出したのは、マゴの農書28冊のみであった。大カトーもキケロも農業を重視した。キケロはこう書いた。
「企てたり求めたりできるすべてのもののうち、農業が最もよく、有益で、穏やかなものであり、自由な人間にとって最もふさわしい」(p.50)。
結局、ディドロの分析によれば、共和政ローマは地方に所領をもつ名族たちの寡頭支配として安定した社会をなしていたのである。製造業も金融業もさほど大きな地位を占めない古代の産業構造を考えると、基幹産業である農業の掌握が統治の要である。支配層は、「市民」と呼ばれるものの実は地方に所領を有する地主でもあった。
「農業は法と社会とともに生まれた。それは土地の分割と同時に生じた。土地の収穫物が最初の富であった。人々は、さまざまの土地を移動して他人の幸不幸を知らせあうよりも、自分が占めている一片の土地で富を増すことに専念し、それ以外の富を知らなかった。だが、征服の精神が社会を強大にし、奢侈、商業、その他諸国民の栄華と悪意の顕著な印すべてを見出すと、たちまち金属が富の象徴となり、農業は最初もっていた名誉を失った。そして、下賎の者にゆだねられていた農村労働はかつての尊厳を詩人の歌の中に保存するのみとなった。腐敗時代の才人たちは、彫像と絵画に題材を与えた都市には何も見出さず、想像力によって農村に出入りしてかつての習俗を思い出させることを好んだが、これは自らの時代の習俗に対する厳しい風刺であった」(p.51)。
安定した農業的社会は、農耕に専門的に従事する層が生まれて富裕な市民が農業の徳を見失うと腐敗に突入した。ディドロはプリニウスの言葉を引いている。
「土地は、かつては収穫物をたくさんもたらしていた。それは、いわば勝利をおさめた人々の手で飾られた犂で耕されることに喜びを感じていた。そして、この名誉に応えるために、それは力の及ぶ限りその産物を増やしていた。今日では最早そうではない。われわれは欲得ずくの借地農(フェルミエ)にそれをゆだね、また奴隷や罪人に耕作させている。土地がこの侮辱を不快に思ったのだと考えてみたくもなるだろう」(p.51)。
市民が戦士でも農夫でもある時代は終わり、土地の生産性は落ちたというのである。背景には、スコットランドの経済学者と同じ分業批判の視点がある。このような状態から、帝政期の農業の特質が生まれてくるのである。
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ディドロの農業論 01 オリエントからギリシアまで(村井明彦) |
最近わがゼミでは、水・灌漑と農業・権力の関係が重要なトピックのひとつになっているように思います。これに関して少しまとまったことを書きたいと考えていますが、いきなりでは大変なので、まず準備作業から入りたいと思います。というわけで、今回は『百科全書』からディドロの農業論をまとめます。有名な『百科全書』は、アカデミーの権威に不信感を表明し、情報がどんどん刷新されてゆく時代にふさわしい知識伝達の手法を、というねらいでディドロらが世に出したものでした。ディドロはなんと、それでもすぐ記述が古びるだろうということさえ予測していて、継続的に改める必要を説いていました。『百科全書』はいわば、啓蒙期の書物形態でのインターネットでした(これについては後日改めて報告できると思います)。
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『百科全書』の「農業」の項は、その大半が耕作など農業技術に関わるトピックで占められているため、研究者の関心もそちらに集まりがちなのではないかと思われる。次のような書き出しも、技術としての農業に関心を集中させる要因になっているだろう。
「農業 agriculture は、この言葉から充分に理解されるように、土地を耕作する技術である。この技術は、もろもろの技術のうちで最初の、最も有益な、最も普及した、おそらく最も大切な技術である」。――小場瀬卓三・平岡昇監修『ディドロ著作集』第3巻「政治・経済」、法政大学出版局(1989年)の古賀英三郎訳「農業」より(p.48)。ただし以下の引用も含め一部改めている
ここで「この言葉から……」とは、「畑の」を意味する“agri”と「耕作」を意味する“culture”が合成されたこの語のなりたちの説明である。けれども、このあとしばらくディドロが説明するのは、農業技術ではなく、古代の権力と農業の関係である。長くなるが、興味深いので、なるだけ詳しく拾っていこう。まず、農業活動が重要だという意識が神話にどう反映されているかが考察される。
「エジプト人は、それを発明したことでオシリスに敬意を表し、ギリシア人はケレス(ラテン系の農業神)とその息子トリプトレモス(アッティカの町エレウシスの王)に敬意を表した。イタリア人はサトゥルヌス(イタリアの農業神)か、彼らの王たるヤヌス(ラティウム初代の王)に敬意を表し、この賜物に感謝して彼らを神々の列においた。農業は、質朴な習俗、善良な魂、そして気高い感情の故にすべての人々のうちで最も尊敬に価する家父長たちのほとんど唯一の仕事であった。それは、古代の他の諸国民のところでもきわめて偉大な人々から深く愛された。小キュロスは菜園の木々の大部分を自分で植えて栽培した」(p.48)。
人間が生きていく上で食べ物を欠かすことはできないが、農業はそれを生み出す活動なので、国で最も偉大な人々に重視され、それを司る王は尊敬を受けたし、主な国ではそれを司る役割をもつある種の神々がいると考えられていた。ラケダイモン(スパルタ)の指導者リュサンドロスは、上記のキュロスの菜園を見てこう述べたという。
「おお、すべての人々が、こうしてあれほどの偉大さと尊厳に徳をつけ加えることのできるあなたを幸福に思うに違いない」(p.49)。
共和主義者に共和政の原点をなす理想国家と考えられてきたのがスパルタだが、その将軍がペルシアの農園を見て、共和主義的価値の核にある「徳」を増すものとして農業を讃えている。有徳なる「農業王」のイメージが語られているわけである。続いて、説明の舞台はローマに移る。
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